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あらまし

小さな町

北海道の地図

北海道の南岸、太平洋に面した浦河町。 新千歳空港から直行高速バス「特急うらかわ号」(1日1便)に乗って3時間40分もかかります。 海沿いを走り、牧場を抜け、抜群の景色を楽しむことができます。

ここ数年人口は減り続けていて、現在1万4千人余り。漁業とサラブレッドの産地として知られています。 牧場があることから規制が厳しく開発が進まなかったので、昔ながらの景色が残っているのも自慢。 雪が少なく温暖なことから「北海道の湘南」とも呼ばれています。

以前は豊かな魚場を求めて多くの漁船がやってきて賑やかな町だったそうですが、どんどん寂れていっています。 大型スーパーは撤退し、飲食店や銭湯などが廃業しています。 そういう中で、おしゃれなギャラリーカフェが誕生したり、 いろいろなイベントやライブが開催されるなど文化の豊かさを感じる魅力的な町です。

小さな映画館の歩み

大正7年

大黒座創業

大正時代、建築業や材木商を手広く営んでいた三上辰蔵氏が、家が広いことから講談師や旅芸人を自宅に招いたことが 「大黒座」のきっかけになったようです。 大正7年、大黒座創業。木造の風格ある建物でした。 最初は桟敷席。座布団を売るお姉さんがいて、風紀取締りのために臨観席には警官が立ち、席も男女別々。 暖房には火鉢を貸し出していたそうです。

昭和28年

全盛期

辰蔵氏が亡くなられた後、娘のヨネさんが2代目館主となり、昭和28年に改築。 220席の大きな映画館となりました。両脇に暖房用の大きなペチカが置かれている写真が残っています。 当時は漁業が盛んで、映画も全盛期。連日、映画館の前には長蛇の列ができ、 入口に御用籠をぶら下げ、そこにお金を投げ入れてもらったそうです。 朝の10時に上映を始め、9時からナイトショー、その後は深夜興業と、朝の4時まで映写機は回り放しの毎日でした。 その全盛期を、3代目館主政義さんと妻の雪子さんが働きづめで支えました。

昭和50年

衰退期

テレビやビデオの普及により映画は衰退期を迎えます。 同じ頃、魚場が変化して漁獲量が減少し漁師の数も激減していきます。 競走馬も外国産馬に押されて浦河の町はどんどん寂れていきました。 政義さんは映画館の赤字を補うためにクリーニング業を始めました。

昭和50年、政義さんの長男の雅弘さんが大学を卒業して浦河に戻り「大黒座」を手伝い始めます。 当時の暖房は石炭のボイラー。人一人が入れるくらいの大きなボイラーでした。 ポスターを貼り、割引券を配り、ボイラーを焚き、映写機を回しと、雅弘さんは休む間もなく働きます。 そのうち、石油より石炭が高くなり、暖房費の掛かる冬には、土日のみ開館する「週休5日」でしのぐような時期を迎えます。 建物は老朽化し隙間だらけになって、お客さんも少なくなり、「大黒座はとにかく寒かった」と多くの人が語っています。

昭和61年

浦河映画サークル発足

昭和61年に「浦河映画サークル」が誕生します。 きっかけは「映画の話をしたい」と以西明美さんのことば。 政義さんが映画好きの人たちに声を掛けて喫茶店に集まり、 初対面なのにすぐに映画の話で盛り上がり何かしようということになったそうです。 機関紙「めろでぃ」を発行し、「浦河映画祭」を「大黒座」で主催。自主映画を何作も製作するほど盛り上がりました。 自主製作作品を「浦河映画祭」で上映する時には「大黒座」が満員になり拍手喝采で盛り上がったそうです。

平成5年

3代目映画館誕生

平成5年、国道の拡幅工事に伴って「大黒座」もセットバックしなければならなくなりました。 これを契機に、「大黒座」をたたむのか? 建て替えるのか? 結論の出ないまま「建て直すとしたらどんな風になるのか?」と、話は進んでいきます。

平成6年改築。48席の小さな映画館「大黒座」が誕生。 3代目館主政義さんが亡くなられた後、雅弘さんが4代目館主となりました。 現在は、雪子さん、雅弘さん、佳寿子さんの3人で「大黒座」を営んでいます。

平成20年

大黒座サポーターズクラブ発足

ミニシアターに生まれ変わった後の2008年に「大黒座サポーターズクラブ」が誕生します。 「大黒座」の応援しようと有志が組織したもので、 会員は年会費1000円を支払うと2ヶ月ごとに「大黒座」の番組表が届き、 大黒座で5回映画を見ると「お誘い券」が貰えます。 (サポーターズクラブの詳細はこちら!

「お誘い券」は自分で使うのではなく、「大黒座」から足が遠のいている人に「大黒座へ行ってね」と誘う券。 その料金は「大黒座サポーターズクラブ」が支払うシステムです。 町に映画館の灯を点し続けてほしいとの願いがこもっている活動です。

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